「遊郭」、「花魁」と聞くと、みなさんはどんなことを思い浮かべますか?
自分は「江戸時代の風俗」かなと思っていましたが、調べてみるとそんな
ことはないのだということがわかりました。
そこで今回は、遊郭や花魁について見ていきたいと思います。
遊郭
まず「遊郭」ですが、始まりは※江戸時代であるものの、その存在は昭和33年
(1958年)に「売春防止法」が施行されるまで続いていたそうです。
昭和33年と言えば、高さ333メートルの東京タワーができた年、そしてその
6年後である昭和39年(1964年)には東海道新幹線が開通し、首都高速道路
ができ、東京オリンピックが開催されました。
※一説には豊臣秀吉の時代に遊郭は成立したとい説もあります。
そう考えると、意外と最近まで存在していたという感じがしますが、いかが
でしょう?
さて、遊郭とは幕府公認の遊女屋(女郎屋)を一か所に集め、その周囲を塀で囲った
場所を指します。
遊女屋とは遊女(女郎)と呼ばれる人たちを住まわせ、男性客を取らせて商売
していた家のことです。
江戸(東京)の「吉原遊郭」、大坂の「新町遊廓」、京都の「島原遊廓」は三大
遊郭と呼ばれ、今でも有名ですが、その他にも全国に数多く存在しました。
ちなみに、私は東京都の多摩地区在住ですが、近場だと「八王子遊郭」(田町遊郭)
というものもあり、一度訪れたことがあります。
八王子遊郭の跡地は閑静な住宅街になっていますが、今でもその名残を見ることが
でき、元遊女屋だった建物や、遊郭時代のメインストリートが残っています。
訪れた際、「かつてここも賑わっていたのだろうな」と考えると、何とも感慨深い
ものがありました。
遊女
さて、遊郭にある遊女屋では、遊女と呼ばれる人たちが働いていましたが、今でい
う風俗嬢とは少し違ったようです。
というのも、男性相手の商売という点では同じであるものの、ただ性のサービスを
していればよいかといえば、そうではなかったからです。
遊女は、遊郭の外へ出ることは禁止されていました。つまり、自由がなかったのです。
日中は三味線など、芸事の練習に励むことも多くありました。
遊女のトップである「花魁」ともなると、三味線の他、舞踏や唄、華道や茶道、書道や
香道、和歌や漢詩、それから囲碁や将棋といったものまで、様々なものを身に付けて
いました。もちろん話術も長けていなければなりません。
性的なテクニックだけでなく、才女である。これこそが遊女に求められていました。
では、遊女についてもう少し細かく見ていくと、遊女の多くは子どもの時に親の借金の
肩代わりとしてやってきました。
遊郭で働き、親の借金を返していく必要があったわけです。
10歳までに連れて来られた女の子は、「禿(かむろ)」と呼ばれ、先輩の遊女に付いて
身の回りの世話をしながら様々なことを学びます。
学ぶ中には「言葉使い」もあります。花魁というと、「ありんす」という語尾を思い出す
方も多いと思いますが、これは方言が出ないようにと、徹底的に叩き込まれたようです。
13~14歳ころになると、次のステップである「新造」になり、先輩遊女の元で、本格的
な接客業務などを学びます。
そして16~17歳で遊女としてデビューを果たしました。その一握りが遊女のトップである
「花魁」となるのです。
ちなみに、時代によりトップの遊女を「太夫」と呼ぶともありました。
16~17歳で遊女としてデビューしますが、25~26歳ころになると、「年季明け」といって
遊女を引退します。
年季が明ければ、長かった遊郭での拘束も解かれ、外へ出ることができます。中には男性
と結婚し、幸せに暮らした女性もいましたが、ずっと遊郭で暮らしていたため、外へ出て
も頼る人はなく、仕事もないという女性も多くいました。そういう女性たちは遊郭にとど
まり、遊女の相談相手などをして暮らしていました。
以上、遊郭と遊女について見てきましたが、いかがだったでしょう?
昭和まで存在した遊郭は、「東大生が入り浸り、勉学がおろそかになった学生もいた」、
「戦後はアメリカ人の遊び場になった」などという話もあります。
また遊女の1日はとてもハードで、普段の食事は質素なものだった。といった話もあります。
このあたりについて、機会がありましたら次回触れたいと思います。